555971 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

tabaccosen

tabaccosen

糸井重里

○ひさしぶりで、糸井重里の「ほぼ日刊いとい新聞」に、アクセスする。 「詩&物語の或る風景(2165)」 [ criticism ・(批評) critic・(批評家 ]
○ひさしぶりで、糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」に、ア
クセスする。見入る。先日、一日のヒット数、なんと100
万。という数値を聞いたからだ。なんで。なのだ。そんなこ
とがである。2年ほど前に、アクセスして以来だ。イントロの
「スタイル」は、変わってない。例の「話しことば」も。しか
しまあ~。である。<さくら、咲く花の望楼> と化していた。
それぞれの領域に、うでっぷしもそこそこの、枝葉が伸び、
花が咲いていた。のだ。<ゴールデンウィーク> という時節も
悪くない。さくら戦線が、北日本、北海道に及ぶころだ。弘前
の城・函館の五稜郭・札幌の時計台。

○ひとつひとつの花とは、
<話題からつくられた本>などだ。<ほぼ日> と言いながら、ここ
の主(あるじ)の<もの>にしようとする、集中力を感じる。少々
言い方が汚いか。なんというか、<答えのない、問い>、に応え
る、<いとい>だ。ははっ。こうして「かたち」にする力を、み
るのは健康的でもある。デリバリーも、6,7万。にもなると
いう。見事なものだ。
○「アメリカ大陸」を発見した。と。も。

○blogができて、「作文」も、「表現」も、たいぶ簡単に
なった。だが、内容は高まらない。内容のないものも多い。そ
のために、<自滅>していくのだ。飽きて、ほっぽりなげて、う
っちゃる。という<人生>(?)だ。この点「ほぼ日」は、大い
に参考になる。が、それには<下地>が、必要だ。第一これはプ
ロの仕事だ。communication の極意。のようなものだ。プロが、
プロの<基本>に触れる仕事であり、その仕事の原点をも指し示
す、ものなのだ。糸井のコトバには、無駄がない。削り落とし、
削ぎ落として、というものではない。日常が、そうした意識下
にあることから生じるものだ。まだ聞いてないが、生活と仕事
との接遇の襞(ひだ)。それは、人生の愉悦なのだ。詩歌と着物
と、彩色か。あたまのいいおんながかたわらにいる。というこ
とがもたらすものだ。樋口可南子か。渓流釣りぐらいのものか
と、勝手に想像していたが。バスに乗り遅れるな。だと。

○ディテールまで見聞していない。
が、一般の参加者、blog 愛好家との、communication から、種
々の好奇が渦を巻き、拡散し、収斂する。そうしたイメージを、
感じることができる。基本はそこだ。連綿と続く日常的な発掘
作業。そこに投じられる投稿者の<気分・思い・関与・動機>。
それらを、掬い上げ情報ネットに挙げる、リンク情報はそれぞれ
の領域の深部へ浸透する。他方で、フィード・バックされ、
変容を受けて、< media > の領域を形成していくのだ。(中)

○ことしの正月<糸井重里>の日経ビジネス・エクスブレス掲載
のインタビュー記事がある。これがおもしろい。いろいろある
が、そのなかでも、聞き手が身を乗り出す、<閉鎖的なコミュニ
ティーでの金儲け>を、拒絶する糸井。そこらあたりが、真骨頂
、か。本随か。と、思う。以下、クリックしてみてください。
http://nb.nikkeibp.co.jp/free/PROJECT/20041222/107069/へジャンプ

○ついでに、企業が広報と宣伝活動とを、一体化する動きがあ
る。が、という問いに。対して、<やっと、そこまできたか。>
が、糸井の声。<お金>の問題だとし。動き方ひとつで、その分
野の「孫正義」になれる。とも。

○愛知万博の日本館のプロデューサー氏、曰く。「かたちでな
く、考え方を残せたら」と。共振するものがある。時代性。相
か。<PC> 感覚が無意識的に浸透している。そういう風の感覚
。愛知万博・長久手会場・日本間プロデューサー・彦坂裕
http://www.nippon-kan.jp/making/new_040625/index_txt.php#01-2へジャンプ


○みんな、みんな「ほぼ日」くらいは勉強しているのだ。学習能
力が高いのだから。その程度のことは、至極当然のこととして、
せっせと。遣っているのに違いない。だから、「猫も杓子も」と
いうぐあいに、ねこ・いぬ・ぺっと。の写真が氾濫するのだ。自
分が「いいなぁ~」と、思ったものを行動に移す。それ自体は悪
くはないが、安直すぎるのだ。「カワイイでしょ」の押し売りだ。
「マスターベーション」と、変わらない。結局、閉じられた回路
を自ら作り、<ぐるぐる廻り>だ。「日記」といい。なんでもかん
でも、blogに、書かれるものの多くは、こうした<無・内容>
のものが殆どなのだ。それでも、わからない相手に向かって放出
される散文の数々。どれもこれも。自身の分身。とは言いかねる
が、捨てがたいものもある。が。

○こどもの写真も同じだ。「押しつけ」。・・・・だが、こういう勘
違いは、日常のものだ。自分だけのものを、相手にも強要するこ
とは決して少なくないからだ。迷惑顔しないならまだしも。とい
うことだ。プロの仕事は、こうした身びいき、独りよがりとは、
一線を画している。その差異に気づかないから、アマなのだ。そ
れはそれでいい。のだろう。が。

○糸井の文章を、<見て>思うのは、
力点の置き方の違いだ。文章の上手い下手でなく、<動機>をいう。
じつは、<動機>というものは、近年の思考の傾向としては、疎ん
じられてきた経緯をもつ。<動機>をテーマとするもののクライマ
ックスは、(遠く)ワーグーナー時代になる。ロマンティズムと密
接な関連を持つものだ。<プチ・ナショナリズム> などが言われる
昨今、<ポスト・モダン>ならん、<プチ・モダニズム>とも言うべ
き、< motivation-群> が、多くの出番を赦される。これは大事な
視点だ。逆転だ。それに回帰しつつあるのかしれない。< puti >
の範囲で。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○<ゴミ>と、吐き捨てる作家もどきもいる。
が、それはマチガイだ。なにかが生まれるには、たとえ生まれな
いとしても、多大な無駄な、ゴミが必要なのだ。それよりも、<無
>と、切り捨てる傲慢さが問題なのだ。

○傲慢さを指摘する方が、傲慢さでそれを押し切るようではいか
ん。が。(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


© Rakuten Group, Inc.